やさしい理論

社会で”大人として”規範を持つようになると、なんでも平等であらねばならないように感じるけど、果たしてそれは、いいことなんだろうか。

好きな人、好きじゃない人、嫌いな人といろんな段階で自分の気持ちがあるんだけど、全て同じ振る舞いをしなきゃいけないって思うのは、自分にとって正直じゃない。

平等さよりも、自分の気持ちにストレートに生きてる人をみると、腹立たしくなったりするのは、本人がそれを、自分に禁じているからだ。

自分自身に優しくあるなら、ストレートにキモチのまま生きたほうがキモチいいよな。
邪魔をするのは「人には誰に対してもやさしくあらねばならない」というmust理論。

その裏に隠れているのは「係わる人全員にやさしくみられたい」願望、要求。
結果としてそれは優しい振る舞いを産むかもしれない。

しかし優しい振る舞いに失敗したとき、優しくさせてくれなかった周りに対する怒りと優しくあることができなかった罪悪感で打ちのめされる。

怒りは表面意識で起こるので、なんとか説き伏せられる。けど、罪悪感は潜在意識からやってくるから、やっかいだ。

罪悪感の底に横たわっているものは、
「本来の自分から遠ざかっている」
「あなたと一つでありたいのにできない」
という分離感。

本来ならば「優しくありたい」という優しい思いから派生しているのに、願う自分でありえなかったと、自分を責めるのは、なんて悲しいことなんだろうね。


「優しくありたいのに」と、怒りと罪悪感がわき上がってきたとき、まっさきに優しくしてあげたいのは、あなた自身。

月が満ち欠けるように、やさしさと冷たさが見え隠れしているだけ。

「本当はヒドイ人間なんじゃないか」と恐れているかもしれない。恐れを隠すために、自分を演じてきたかもしれない。

あなたの心臓が熱く脈打つように、手のひらがやわらかいように、36度の体温を保ち続けるように、あなたの心は、いつでもあたたかい。



冷たさもあたたかさも、怒りも悲しみも、絶望も希望も、愛も恐れも、全ての感情を孕んだあなた自身が、完璧で美しい存在だと気づきますように。

未完成であるがゆえに、完璧で美しい存在だと気づきますように。


どうか。


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